出典:JR東海
2025年、JR東海は「志摩にしました。」というキャッチフレーズを冠した観光キャンペーンを打ち出しました。
これは、東海道新幹線で東京から名古屋まで移動し、そこから近鉄特急に乗り換えて伊勢志摩へと向かう──まさに、近鉄が長年にわたって築いてきた“接続戦略”の完成形を象徴するような展開です。
新幹線と競うのではなく、連携して観光地へと旅客を誘導する。その発想は、昭和の時代から受け継がれてきた近鉄の哲学に他なりません。今回のキャンペーンは、首都圏からのアクセスを強く打ち出すことで、富裕層を含む団体旅行や個人観光層に対して、伊勢志摩という目的地の価値をあらためて提示する狙いがあります。三重県や地元自治体とも連携し、大規模なプロモーションが展開されました。
背景には、志摩観光ホテルに代表されるハイグレードな宿泊施設の存在があります。伊勢海老や鮑を使った伝統的なフランス料理、英虞湾を望む絶景、そして伊勢神宮への参拝──そうした「静と動」の観光資源を一本の鉄道ルートで結ぶ構想は、いまや一本の線路の先に現実の風景として結実しつつあります。
その東京駅を起点に、名古屋経由で伊勢志摩へと人々を運ぶ導線は、決して偶然に生まれたものではありません。
その源流をたどれば、1959年──近鉄が名古屋線の標準軌化と大阪線との直結を実現し、名阪間の直通特急運転を開始したその瞬間にまで遡ることができます。
ここから、伊勢志摩へと至る特急ネットワークの歴史が始まり、いま、東京からの旅の形としてようやくひとつの完成形を迎えようとしているのです。
第1章:名阪直通運転の始まりと黄金期

出展:近鉄公式サイト
1959年、近鉄は名古屋線全線の軌間を狭軌(1,067mm)から標準軌(1,435mm)に改軌しました。これにより、大阪線との相互直通運転が可能となり、中川短絡線の開通とともに、名阪間直通特急「ビスタカー(10100系)」が誕生しました。運転開始は1959年12月。名古屋〜大阪間を2時間30分弱で結ぶ速達性と、全席指定・冷暖房完備の快適性は、当時の国鉄急行と比べても優位に立ち、都市間輸送における主導権を握りました。さらに1963年には複線化・ダイヤ改正が進み、名阪甲特急は2時間13分で運行され、名阪間にいおて国鉄の特急「つばめ」や「はと」を上回る所要時間を実現しました。この時期、近鉄は都市間高速鉄道としての頂点に立っていたのです。
第2章:新幹線の開業と速度競争の終焉

しかし1964年、東海道新幹線が開業すると状況は一変します。「ひかり」は名古屋〜新大阪間を約1時間30分で結び、速度面では近鉄特急の優位性が完全に失われました。名阪間のビジネス需要は急激に新幹線に流れ、近鉄の名阪甲特急は2両編成に縮小されるほどの乗客減に直面しました。
ここで近鉄は、方向転換を決断します。速さで勝てないなら、行き先で勝負する──観光地へのアクセスを重視した“接続戦略”への転換です。名古屋、京都、新大阪(間接的に)など新幹線と結節するターミナルを起点に、奈良、吉野、伊勢志摩といった観光地への直通特急を充実させ、鉄道会社としての生存戦略を観光誘致に見出しました。
第3章:“接続戦略”の制度化と観光ネットワークの拡充

1965年には京都〜橿原神宮前の特急が有料化され、「京橿特急」が誕生。これにより京都から南部奈良・伊勢志摩方面へのアクセスが格段に向上しました。また、鳥羽線の開業(1970年)と志摩線の標準軌化(1969年)により、伊勢市・鳥羽・賢島までの特急直通運転が可能となり、観光鉄道網が完成しました。
さらに1970年の大阪万博では、「万博+伊勢志摩・奈良観光」という周遊型観光需要を創出。これを受けて近鉄は難波線の整備やスナックカー(12200系)の導入を進め、新幹線から近鉄への乗り継ぎという利用パターンを定着させていきました。
第4章:アーバンライナーによる名阪特急の再興

1980年代、国鉄が赤字と運賃値上げに苦しむ中、近鉄は再び名阪輸送への注力を強めました。1988年に登場した21000系「アーバンライナー」は、私鉄初の120km/h運転、静粛性に優れた台車、デラックス車両の導入といった高性能を実現し、近鉄特急のブランド価値を再構築しました。
1990年代には利用者が回復し、「安く、静かで快適な移動」という選択肢として一定の地位を確立。ビジネスパーソンだけでなく、シニア層や学生など幅広い層に支持されるようになりました。
第5章:「ひのとり」で“移動を体験”へと進化

2020年には80000系「ひのとり」が運行を開始。プレミアムシートにはフルリクライニング、バックシェル、読書灯が備わり、まるでラグジュアリーホテルのような空間が実現されています。
この車両は単なる移動手段ではなく、旅の一部そのものへと昇華されています。ビジネス・観光の垣根を越えて、「快適な時間消費」が提供される特急として、近鉄ブランドの象徴となっています。
第6章:歴史と戦略がつながる今──再び動き始めた“意味のある旅”

かつて名阪直通運転で国鉄に勝利し、そして新幹線開業で敗北を喫した近鉄。しかし、そこから観光輸送への転換を図り、新幹線と連携する接続戦略へと進化しました。現在の「志摩にしました。」キャンペーンは、その歴史の積み重ねの上にあります。
令和の時代においても、東京から伊勢志摩へという旅に意味を持たせる近鉄の姿勢は変わりません。
出典元リスト
- 近畿日本鉄道株式会社 公式ウェブサイト
- 「観光キャンペーン『志摩にしました。』特設ページ」
- 「近鉄特急の歩み」
- 「ひのとり」特設ページ
- 「アーバンライナー」車両紹介ページ
- 『近鉄特急ものがたり』交通新聞社(書籍)
- 国土交通省資料「鉄道車両の高速化と観光施策」
- 三重県観光連盟「伊勢志摩観光の推移と今後の展望」
- 日本交通公社『観光と鉄道の関係性に関する研究資料(2023年版)』
<近鉄は名古屋線全線の軌間を狭軌(1,067mm)から標準軌(1,435mm)に改軌しました。
すごいことです。日本は明治の鉄道草創期に、「国土が狭い」からと狭軌で線路の敷設を始めたのが、鉄道史で最大の失敗でした。一度敷設してしまえば、標準軌に変えようとしても、車両や駅の構造などすべてをかえねばならず、国鉄・JRを通して現在まできています。狭軌は阪急など私鉄の標準軌と比べて電車の揺れが大きく、安定感がない。何よりも新幹線と相互乗り入れができないのが欠点です。北陸新幹線や長崎新幹線では乗客に乗り換えの不便を強いています。
ただ、近鉄も南大阪線は狭軌です。それで河内長野では狭軌の南海線と相互乗り入れしていますし、南海は関空線でJRと相互乗り入れし、建設中のなにわ筋線も狭軌ですし、この線に乗り入れを計画している阪急の十三ー新大阪新線も狭軌で作る予定です。このため阪急の他選への乗り入れはできません。
明治の誤った判断が今なお、大きな影響を残しています。
近鉄特急のファンです。とりわけ大阪線、名古屋線、鳥羽志摩線を行き交う特急群は日本の私鉄特急の王者として頂点に君臨し続ける貫禄。ヨーロッパ的な優美なスタイルデザイン、豪華な内装、大柄な車体とそれを支える標準軌の余裕の走り。他社の私鉄特急に比較出来るレベルのライバルさえ居ない優位性に惚れ込んでいます。
♪縦の糸は貴方〜 横の糸は私〜
中島みゆきさんの名曲「糸」の歌詞ですが、鉄道網とは糸が織り成す服のようにネットワークみたいなものだと思います。
近畿日本鉄道、略して近鉄と呼ばれますが、昔は近日(きんにち)と呼ばれる事もありました。
なぜ関西圏の鉄道会社なのに「日本」と付いているのか。
それはかつて近鉄はその路線網を関西を越えて拡げる壮大な計画を持っていたから。
なんでも東京まで路線を伸ばす計画もあったそうです。
しかしそれは国に認められず幻となり今に至ります。
その近鉄が横の糸たる国土軸・東海道山陽新幹線に縦の糸として緻密な路線網を接続させ地域の発展、ひいては国の発展に寄与している。
新幹線が強ければ近鉄も強くなり、近鉄が強ければ新幹線も強くなる。
理想的な鉄道網の有り方があると私は考えています。