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創造の情熱と『最高に美しい写真集』は、なぜ制度の壁に跳ね返されたのか?大阪関西万博の「静かなる消失」が問いかけるもの


まえがき:本稿は、写真集の制作者である夜行部(堀寿伸 & supira)両氏へのインタビューをもとに構成した記事です。

万博を題材にした同人写真集の販売中止を不思議に思い、僕が自主的に取材を申し入れて記事にする事にしました。制作の経緯、意図、そして販売差し止めに至るまでの経過を、両氏の言葉で丁寧に伺いました。その内容をもとに、本稿では「なぜこの写真集が排除されたのか」という、構造的な問いを掘り下げていきます。

プロローグ:一冊の“静かな消失”が残した波紋


2025年。半年間の熱狂と共に閉幕した大阪・関西万博は、多くの人々の記憶と記録に残りました。公式記録だけでなく、来場者一人ひとりが、SNS、動画、そして時に自費出版の形で、自身の体験を発信した「共創の場」でもありました。

その中で、万博の夜景をテーマにした一冊の同人写真集が、公式側からの申し入れにより販売差し止めとなる出来事が起こりました。

 

写真集は施設の外観のみを扱い、著作権に触れるキャラクターや内部撮影は一切排除。頒布価格は印刷・製本・取材費の実費に抑え、営利目的を排した、純粋な「記録」と「表現」の結晶でした。それにもかかわらず、この“最高に美しい写真集”は、静かに世の中から排除されました。

一体、この一冊の美しさと情熱のどこに、制度が容認できない「リスク」が潜んでいたのでしょうか。この出来事は、公共空間における「創造の自由」と「管理の論理」の避けられないすれ違いを、私たちに突きつけています。

制作の背景:誰もが気づかなかった“夜の万博”の輝き

この写真集は、夜行部の二人が万博会場を訪れた際に受けた「夜の光景の感動」を、どうしても形に残したいという強い使命感から生まれました。

彼らが目にした夜の万博は、公式パンフレットや報道では十分に伝えられていない、息をのむような美の世界でした。この感動を伝えるには、自分たちの手で最高の形で記録するしかない。その情熱は、制作の隅々にまで注ぎ込まれました。


構図、タイミングの徹底的な追求はもちろん、印刷方式には一般の商業出版ではほとんど使われないRGB印刷を採用。現地で感じた光と色の感動を、紙面上で可能な限り忠実に再現することを目指しました。頒布価格は、あくまでも「記録」としての制作費用を賄う実費の範囲にとどまりましたが、そのクオリティは非公式の枠を遥かに超えていました。

万博の空気を、そのまま真空パックした一冊

実際に僕は、制作者からこの写真集の原本を見せてもらいました。最初のページを開いた瞬間、思わず息をのみました。万博の夜の空気を、そのまま真空パックしたかのような圧倒的な臨場感。あまりのクオリティの高さに、鳥肌が立ちました。

この作品は“撮られた風景”ではなく、“会場の空気”を閉じ込めた記録でした。そして僕は、これを万博を愛した人々が見ることができないことが、心の底から残念だと思いました。制度的な制約があることは理解しています。それでも、これほど誠実に万博を愛し、最も美しい形で記録した一冊が「日の目を見ない」という現実には、深い矛盾を感じました。そして皮肉にも、この「高すぎるクオリティ」と「伝播する感動」こそが、制度の壁に跳ね返され、排除の要因となったのではないか。そう思わずにはいられませんでした。

高すぎたクオリティ。なぜ、この作品だけが止められたのか?


万博を題材にした創作物は多数存在し、中にはパビリオンの内部撮影や、キャラクターの非公式使用を含むものも確認されています。それらが販売停止になったという報告は(僕の観測範囲では)ありません。なぜ、権利に最大限配慮したこの写真集だけが標的となったのでしょうか。

公式からの明確な説明も、弁明に対する返信もないまま、制作者たちが抱くのは「クオリティや注目度が高くなりすぎたことが、結果的に判断に影響したのかもしれない」という苦い推測です。これは、同人誌文化の「愛ゆえのクオリティ」が、制度のセンサーに引っかかってしまった結果と言えます。低いクオリティであれば「ノイズ」として無視できたかもしれません。しかし、この作品の「鳥肌が立つほどの美しさ」は、非公式でありながら公式の記録に匹敵、あるいはそれを凌駕する「公的な記録」としての価値を帯びてしまいました。

公式側から見れば、これは単なるファン活動ではなく、統制外の「公的記録」や「ブランドイメージの代替品」として機能し得る、容認しがたいリスクとなった可能性があります。

「機能的な万博愛」と「表現的な万博愛」


万博会場には、非公式ながら公式機能を補完し、来場体験の質を高めたアプリやレポートが多数存在し、これらは黙認されました。


  • 利用者目線で構築された地図アプリ「つじさんのMAP」

  • 現地で高い支持を得たナビゲーションアプリ「万博GO」

これら「利便性」を提供するツールは、公式の「機能的な欠陥を補う万博愛」として受け入れられました。しかし、写真集が体現したのは、純粋に「美しさを記録し、共有したい」という「表現的な万博愛」です。

制度は、秩序やルールを守るために必要です。特に国際的な博覧会においては、ブランド統制やスポンサー契約を維持するための厳格な管理(ブランド統制・法的リスクの回避)は不可欠です。

しかし、「利便性の提供」は許されても、「美の記録」はリスクと見なすというこの判断は、制度が「機能的な愛」は理解できても、「表現的な愛」を公共財として評価できないという、視野の狭さを露呈した結果と言えるのではないでしょうか。

終わりに:未来の公共空間が問いかけられるもの

 

制作者たちは争うつもりはないと言います。制度への配慮を尽くしたうえで、非公式の立場であることを自覚しているからです。それでも、「この一冊だけが選ばれ、説明もなく頒布を止められたこと」への複雑な思いは残ります。

本件は、万博という特別な場だけでなく、今後の公共空間、文化イベント、そして市民参加型のプロジェクトにおいて共通する、本質的な課題を投げかけています。制度は、秩序を守るだけでなくそこで生まれる市民の情熱と創造性という見えない公共財をいかに守り、育むか。


「最高に美しい」という情熱と技術が、なぜ排除の理由となったのか。この静かなる消失は、「市民の創造的記録の自由」と「公共イベントの管理責任」が、現代社会においてどのように折り合いをつけるべきかという、重い問いを未来へ投げかけているのではないでしょうか。

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